不寛容な時代の中で・・・

      2019/09/11

オセロのような言動が横行している。
 
誰かと別れたら、この出会いに意味があった or なかった。
何かを追い求めて、見つけられた or 見つけられなかった。
勝負に勝った or 負けた。
仕事に成功した or 失敗した etc.
 
最後の端の色が黒なら、すべての思い出が黒に染まる。
 
親子でも、過去の恋人でも、友情にでも、楽しかった思い出もあるし、悲しいシーンも存在する。出逢いの最後が辛かったからと、すべてに意味がないという結論を、僕にはつけられない。例え金メダルを取れなくても、トレーニングした日々は意味があったし、恋人と悲しい別れをしても、確かに笑い合った楽しい瞬間は存在したから。親から望んでいない言葉を放たれても、家族で飯を食った瞬間を忘れる必要はない。もちろん、一時的に黒にしてしまわないと前に進めないこともある。
でも、いつまでも黒にしたままでは、相手に対してではなく、自分の人生の大切な輝いた瞬間までもが滅んでしまう。なぜなら、人生は自分のヒストリーだから。
黒の中にも、笑顔の白は存在したから。
 
白でなければ捨ててしまうのかい?人生を…
 
だから、オセロではいけない。黒のラインにも、白は白のままで大切な思い出として記憶の中に置いておきたい。
 
ある人気グループで不祥事が起こる。記者会見では、謝罪がメンバー全員に求められる。その不祥事の仲間とは「縁を切る!」と全員が語ることを社会は求めているかのように。鋭く取りまくマスメディアと社会。
 
人の心は分割出来ない。「嫌い」か「好き」かを、ナイフのように一刀両断に切れないのが人間の本質だと思っている。だから人には「間」が存在するのだと思う。AI(人工知能)のようにYES、NOという単純な二分割にはできない。
 
電流が流れている 1(ON)か、電流が切れている0(OFF)か、コンピューターはゼロとイチの二進法で動いている。でも人間は二進法では動いてはいない。
バサリと真っ二つに切れないのが人間の「心」だと思う。
 
「罪を憎んで、人を憎まず」という格言があるが、罪と人とが一つになる。いや、一つにしないと世間は認めない。元TOKIOの山口君にしても、地域のスーパー銭湯で人気になって、昨年末にNHK・紅白歌合戦に出た「純烈」のメンバーにしろ、やった行為は断罪して然るべきなのかもしれない。ただ人間関係まで「彼は僕の中では死にました」と「もう縁を切ります。復活はないです」とメンバーの誰もが涙ながらに言わないと世間は納得しないようにカメラという世間が、彼らを取り巻く。
 
 
 

 

 

ホンネとタテマエ。大人の理由か…
 
「僕たちの過ごした思い出を、すべて嫌いになんかなれません!!」と言い切る事は難しい社会になりつつあるようです。
 
横綱  稀勢の里が負けると「引退!」「なぜ引退しないのか?」の言葉が紙面に踊る。横綱の出身地でインタビューしたときの「引退して欲しくはないです」「納得するまでやらせてみては?」という、故郷での多数の声はかき消され「アレじゃ、横綱として情ない」「もう無理だね」の声のほうが上回っているように伝えるテレビ。「やがて相撲界はそんなものだね」と一律した社会の見方が形成されてゆく。
 
しかし、横綱が引退宣言した瞬間から、マスコミの手のひら返しが始まった。
 
稀勢の里は「日本人、一人横綱としてプレッシャーがあった」「孤独との戦いだった」「真摯に取り組みに向き合い練習していた」と、今度は偉大な横綱として持ち上げはじめる。
 
大衆はオモチャのように誰かを攻撃し、攻撃が終われば、自分の優しさを確認するように哀れみをアピールする。上げたり下げたりされた個人やグループは、時間の流れの中に、過去の思い出に捨て去られていく。一度、遊んだお人形が部屋に置き去られるように…輝いたそれぞれの思い出はどこに消えていくのだろう…
 
 

 

 

ため息まじりにテレビのスイッチを切り、僕は考えた。仕事と人気のために…「楽しかった仲間との思い出もすべて消して、彼とは縁を切ります」と、僕は罪を犯した友を切れるのだろうか?と…もちろん、その当事者になってみなければ、僕自身にも分からない。そして僕は誰をも裁けない。人はそれほど強くはないことも充分知っているから。

 

 

ただ正義か悪か、味方か敵かの二進法は、これは個人だけではなく、国と国にも広がっている時代です。自国だけの権利だけを主張しあって、他国を互いに攻撃し合っている世界情勢。恐ろしい世界のナショナリズム(自国を重要視する考え)の中にも、その考えは広がりつつあるようです。
 
後は、戦い開始のホイッスルを待つだけです。
 
世界が、愛が追いやられイラだっている。
 
ムンクの叫びは、実際に本人が叫んでいるのではなく、多くの叫んでいる人びとの言葉が、けたたましくて本人がそれに耐えきれなくて耳をふさいでいる絵なのだそうです。
 
 

 

 

心優しき心的パニックの人の気持ちが少しわかるような気がします。
 
静かで沈黙の世界に身を置いて、静かに優しい世界を考えたい瞬間がありますね。
 
おっとりとしたリベラル(個人の自由を重んじる思想)な社会に、僕は身を置きたい。  「あ!そうだインディアンの地に行こう!」
 
僕はまた、切った後ろ髪を伸ばし始めました。大地の風にゆるやかになびくように…
 
 

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