無功徳!

      2019/04/21

 昔、父の車の助手席に乗りカー・オーディオから流れてくる、オールディーズ・ソングを不思議な気持ちで聞いていた。愛する人と泣く泣く別れる哀しい歌を「なぜ好きなのに別れるの?」と幼い僕は、なんだかもの悲しくて、不思議な気持ちで聞いていました。

 大人になると、そんな立場や状況があることも分かってくる。

 ただ、いまだに僕には理解できないことがあります。それは過去に愛していた人を悪く言ったり憎しみから攻撃する人の気持ちです。

 もちろん、「愛憎」という言葉も存在するし、裏切られた怒りも、嘘をつかれた悲しみも理解できないわけではありません。

 テレビでも、おしどり夫婦と社会では評価され、過去に愛し合い、ファンに夢を与えてきた者同士が、連日「もういいのでは」と言いたくなるくらい、つばぜり合いをくりひろげていることは、今に始まったことではありません。

 仏教の開祖である、お釈迦さまは言いました。心を修行した人と、修行しなかった人の違いは何か?とお弟子さんに問われ、こう答えました。誰でも足を踏まれて痛い、裏切られて悲しい、花を見て美しいと思う気持ちはある。そのように修行した人も、修行しなかった人にも感じる心はある。

 

  

 痛い、悲しい、美しさを感じる心は修業した人にも、しなかった人にもあります。この第1 の感覚は誰にもあるのですが、修行した人は、あの人を復習してやる、相手を攻撃してやる、この花を独占してやるという第 2 の感覚を切り離せると言うのです。

 つまり、「足を踏まれたから、踏み返してやる!」「裏切られたから、相手を苦しめてやる!」「花が綺麗だから、花壇から取って自分の家に飾ろう!」という第 2 の感覚に縛られないと言うのです。

 これは簡単なことではありません。だから、修行が必要なのでしょう。

 昔、中国に武帝という王様がいました。


 彼は仏教を深く信仰し、若い僧たちにお金を与えバックアップし、お寺などもたくさん作りました。そこに、インドから偉いダルマ禅師が仏教を中国に広めるために渡って来たのです。

 王様は自分のやった数々の良い業績をダルマに語りました。王様はダルマ禅師からほめてもらえると思っていたからです。
 「私は数々の良いことをやって来ました。私には、これからどんな良いこと(功徳)がありますかな?」
 それに対してダルマの答えは、なんと「何にも良いことはない(無功徳)!」と言い放ったのです。

 ダルマにほめてもらえると思った王様は「なぜ良いことがないのか!」と怒りました。

 するとダルマは「あなたが王様という立場で、お金持ちで、やれる立場だったから、すべてのことが出来たこと。それだけじゃ!」と言い放ちました。

 ダルマ禅師は冷たい人ではありません。ダルマは王様に真の良心を教えたかっただけなのです。それは王様が、自分で良かれと思って行動したのなら、誰かが認めてくれなくても幸せなはずだと。

 ゴミを拾う時に、誰も見てなくてもいいじゃないか。貧しい人に与えるのも誰かに評価されるために与えたのか?自分がやりたいから行動したのではないのか?と…

 仏教を学んで、修業をした人であれば、人の意見に左右されなくとも、武帝皇帝は仏教徒らしく「そうですか!無功徳ですか!それは、よかった!ガハハハハ…」と笑っていれば良かったのです。

 ところが実際には、この物語は、自分の行動を認めなかったダルマ禅師に対して王様は食ってかかりました。「では仏の心や、良いこととは何なんなんだ!」

 ダルマは「やりたくてやってやる。それは見返りを求めない行為。それが善行じゃ!  あなたが、やりたくてしたのなら『良い』とか『悪い』とか、誰かに認めてもらえなくてもよいのではないのか?

 清らかな心は無心で空である。いいかよく聴ききなさい。見返りを求めてする親切や良いことは、やがて怨みになるぞ!   優しくしたくて優しくした、 愛したくて愛した、 世話をしたくて世話したと無心ですれば、相手からの見返りがなくても、認めてくれなくても、自分の中で完結するものよ。でも、相手に期待を求めての愛だの、親切だの、子育ては、やがて憎しみに変化するものさ!そんな相手の見返りが最初にありきの愛だの、善なる行為は、そもそも怪しいものよ!」と言い放ったのです。

 王様は怒りに震えて「お前は何者だ!💢」と、たずねました。

 ダルマはここまで言っても気づかない王様に、ホトホトあきれてしまい「何者かをは知らんよ!自分で考えろ!」と言い放って王のもとから去って行きます。 その後、ダルマは少林寺にこもって、飲まず食わずで座禅を組んだと言われています。それで手と足が無くなりダルマさんになったと言われています。

 

 

 現代は、この王様のように見返りを求めての行動が多いようです。

 人が見てくれるから公園でゴミをひろう。スゴいと言ってくれるからボランティアに行く。金メダルが取れるからスポーツをする。良い学校に行くために勉強をする。結婚してくれると思ったから愛した。お金をもらえるから仕事をする。将来の自分を看てくれる子どもだから育てた…

 僕たちも、この努力が報われないと、怒り一色に変わってしまった王のように、見返りがなくなったら、過去のすべての思い出が反転して、ムダだったと言うなら、相手の愛が無いことを責める前に、自分の愛があったのか、なかったのかを考える必要があります。

 愛したいから愛したのか、自分の中にある目的(周囲に認めさせる、結婚、家族を持つ)のために愛したのか、自分の心の 中にある、愛の居場所を自分自身に問いかける必要がありそうです。
 
 そうダルマに「無功徳!」と指摘されないように。
 
 先日、お金はあるけど、いけていない男性が高級なレストランを予約し、高いコースを用意して、ある女性をデートに誘ったそうです。そして、高いお酒をご馳走したのに、彼女が終電だから帰ると言いだしたので、彼は「え~ホテルの部屋も取ったのに帰るの~だったらお金と時間を返して欲しいなぁ~」とその女性に直接言ったそうです。

 その話しを聴いていた女性たちは全員がドン引きしました。「だから、貴方はモテない君だね」という雰囲気に全員がなってしまって会は解散!

 その後、二人きりになって僕が「でも、好きな人と会えると思ってレストランを探したり、食事を決めたりする瞬間もステキな時間じゃない?」と問うと、彼は「そうですか~、僕は時間とお金がムダだとしか思えない」と言われてしまいました。

 僕の頭の中はチーン♪(終了)って音がしました…    彼は結果至上主義の人のようです。人生の瞬間、瞬間の心づかいも努力も結果のためだそうです。

 過去も、これまでの時間も、すべてがあなたの人生です。

 結果がこうなら、愛さなければよかったと思うなら結果主義の人です。
 結果がどうであれ、あの瞬間も、この瞬間も、その時の「私は心がワクワクしていた!」と「今、ここ」を楽しむ人は、過去の「今、ここ」も楽しめるプロセス至上主義の人です。
 
 そう言うと「じゃぁ、結婚詐欺はどうなんですか?」と問われそうです。そうですね、悲しいですよね。でも、それも未来に向けて学びになったし、だます側より、だまされた側なら、まだ、自分をあざむかなくてすむ。過去のその瞬間、瞬間の、あなたの恋心は決して嘘じゃない。真実だったんです!

 だから、その過去の自分の心のトキメキまでも、すべてを「ムダだ!」と言ってしまうのは、僕はなんだか悲しい気がして…。
 
 なので、すべてに「ありがとう」って言って、これからを笑って生きませんか?  
 「そんなのムリです!💢」

 そうですよね。だから言ったでしょ、第 1 と第 2 を切り離すのは簡単ではないって。だから、お釈迦さまは修業した者と修業していない者の違いは…と、話をすすめたのですから…
 

=おまけの話=

 相談者「衛藤先生、こんなにあの人を愛したのに、こんなにしてあげたのに、あの人は私を捨てて去ったのです。どう思います?」
 
 衛藤答えて「無功徳!愛などない!」
 
 相談者「そうなんです。“あの人”には愛などなかったのです!」

 衛藤あきれて、少林寺にこもる…

 

 


 

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