優しい思いは、誰かに降り注ぐ…

      2019/04/21

 今、自分自身が親に行なっている態度および言動が、いつか、自分が年老いた時に、大人になった子どもから向けられる態度や言動になると孔子は儒教で教えました。


 でも、性的虐待を受けた、また、それを見て助けてくれなかった、育児放棄など、親を尊敬できない人は多いはずです。


  だからと言って、無視したり、こちらが態度を冷たくすると自己嫌悪におちいることもあります。未だに過干渉であったり、今の現家族よりも親を中心に考えろと強要されたり、お金を要求したりと、肉親だから、よけいに他人とは違う感情が生まれます。社会や周囲も「親なんだから」と、今までの関係性を知らずに「したり顔」でお説教を言う親戚も登場します。


 親であっても「ここが嫌いだ」「やっぱりここは好きになれない」と思う気持ちは認めればいいのです。「すべての人を心から愛しましょう!」と言う自己啓発本は、そもそもムリがあります。足を踏まれても「何とも思いません。僕はあなたを愛しています!」は不感症か、過度の怒りの抑圧でうつ病や心身症になってしまいます。


 嫌いは嫌いでいいのです。


 親に対してどのような態度を取るかは、儒教の教えだから、親だからではなく、自分がどんな人でありたいかの問題なのです。
 「親が私を傷つけたから、傷つけ返すの!」は、やはりその人も、毒親と同じ程度の自分自身なのではないでしょうか。
 例えるなら「あの人は挨拶するから私も挨拶する、あの人は挨拶しないから、絶対に私からは挨拶してあげない」は、相手の態度によって自分がコントロールされている人なのです。相手にかかわらず、自分がどうしたいか、それが自分をセルフコントロールしながら生きている人の態度です。


 自分が傷つけられたから、相手を傷つけるというのは、相手にやはり影響を受けています。「毒親、大嫌い!」と言いながら、その親を意識しているのは、未だに親にコントロールされ続けている自分に気づいてはいないのです。


 許すのは相手の為ではなく「自分がどのような人になりたいか」「どんな人生を自分が歩みたいか」なのです。親がどうだったかではなく、自分が親とは切り離したところで、どう生きるのかが問われます。


 まさに「情けは人の為ならず」そう「自分の為」なのです。
 傷つけられたから傷つけようとするのか、傷つけられても、自分は自分らしく、軽快に明るく生きるのか、 を決めるのは過去の環境ではなく、あなた自身の人生です。


  「そんな行為を、あなたの子供が見ている」と、孔子は伝えたかったのではないでしょうか。たんなる人生教訓ではないような気がします。


  僕も父親によって、継母がたくさん入れ替わり、立ち代わりしました。その度に大阪、九州と住居も転々としました。でも、それがあったから心理カウンセラーになりました。


 「今の自分を愛せる人は、過去の不幸をも愛せます!」


 過去を愛せない人は、過去ばかりに囚われないで、全力でこれから幸せにならないといけません。いや、なるべきです。


 過去を恨んでいるヒマなんかないのです。なぜなら、今日の幸せを少しも味わないで、その人は過ごしているのだから。


 電車の車窓から過ぎ去った景色ばかりを追いかけて、暗い顔をしながら窓に顔をあて見ている人みたい。なぜなら、今も確実に電車に乗って、未来に向かっているという事実を楽しむことをしないで、もったいない人生だよね。


 僕の実の母は、父と別れて小さな喫茶店をやっていました。店のレジのお金を若いアルバイトが持ち出し、行方をくらませる事があったそうです。その時に周囲の人たちは「警察に届けるべき」と母に言ったそうです。でも、今は亡くなった母は頑として警察には行きませんでした。元主人の元に置いてきた、息子である僕が、どこかで人さまのお金に手をつけているのかもしれない、でも、私があのアルバイトの若者を許せば、きっと、その時に誰かに息子が許してもらえるかもしれないと言ったと、後に僕は周囲の人に聴きました。

 そんな母の祈りが、母と会えない長い時間の中で、僕が無事に生活し、周囲のステキな人たちに救われ、たくさんの愛を教えてもらえたのだと、僕は今も信じられるのです。


 あなたの誰かに対する許しが、あなたの大切な人に降りそそがれるのかもしれません。それが、孔子が言いたかった意味のように思えるのです。


 あなたの取る態度が、きっと、あなたの未来を作るのです。









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