なぜ、世界につながっていない人が死に向かうのか…

   

 死にたくなる人が多いです。

 社会に不安が広がっているのは心理カウンセラーとしてはわかる。でも「死刑になりたくて…」との理由で、電車や園に侵入して犯行に及ぼうとする身勝手さに共感することは1ミリも存在しない。

 ただ、このように「生きることに価値を感じない人」が多くなっているのは事実です。今の日本の社会には生きづらさを感じている人は少なくはありません。

 戦後「生きること」=「食べること」がすべてであった時代。その時には働くことは生きるためであり食べるためでもありました。働くことによって食べられるという安心感が人を幸せにしていました。

 ある作家さんが言っていました。「昔は現代のように〈幸せ〉」という言葉を使うことがなく、それに近い言葉は「〈安心〉だった」そうだ。
 今は「食べること」や「生きること」が当たり前になってしまって「生」を勝ち取るという実感がない。身体を動かすことにも汗をかくことが「生きる」安心に近づいているという実感がない時代。
 ただ「生きる」ことだけでは喜びに結びつかない時代になっています。

 人間は何かに夢中になっている時には、人の動向は気にならない。生きることに全エネルギーを注がなくてもよくなると「ゆとりの時間」が存在し、他人の動向が気になる比較の時代に突入する。自分が死に物狂いにならなくても、生きていることが保障されている時代には「生きる意味」を、人は失ってゆく…

 生きる実感が希薄になっている時代だからこそ、僕は汗をかきたいと思うし、すべてのことに心を砕き、丁寧に生きたいと思っています。

 人間は何をするかではなく、何かをする時に真剣に何かに関わることだと思っています。

 これをすると成功するのか、儲かるのか、自分の得になるのかだけを頭で考える人には感動はない。それは思考知であって実践知ではないから。

 外から世界を頭で知ろうとする人と、生き物としての活動を通して、世界に包まれている人は、生きる安心感は本質的に違うと思う。
 人生とは「何を成し遂げた」ではなく「すべての時間を丁重に生きたか?」
 この一点だけが、死へと旅立とうとする瞬間に、その人に安らぎを与えてくれるのだと思っている。それが「世界とつながっていた人生だった!」と宣言できる人なのだ!

 前回のYouTubeでも語った。「成功の奴隷になるな。成功を主役にするな。生きている人間が主役なのだ!」と成し遂げたことばかりに重きを置くと、成し遂げない苛立ちを社会に向ける人も現れる。

 「成し遂げる」ことの奴隷にならないほうが良い。すべての瞬間に出会う人や、出会った出来事に対して、手厚く関わっていたかが重要なのだ。

 人生を語る時に「何があったか」を語る人よりも「どう関わったか」を語る人を僕は「好きだなぁ」と思う。

 社会に刃物を持って斬りつけるよりも、自分が飼い慣らされた社会の庇護の中で「ただ生きて来ただけの動物ではなかったか?」と自問せよ!

  しっかり丁重に生きろ! アホんだら。

 

<<よければYouTubeも見て下さい。>>

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