「悲しみ」から「潔さ」へ

      2019/04/21

 山も町もサクラ色に染まる美しい季節です。

 

 青空とサクラ色の絶妙なコントラストは、とても絵になります。

 桜の風景が、子供の頃よりも年々美しく感じるのは、その桜の背景と共に、誰かのほほ笑みや楽しかった心風景が、年を重ねるほどに増えて行くからなのでしょう...


 

 反対に、その背景にある思い出が悲しいものであれば、桜を見ても美しいと思わなくなるのです。なので、いつも悩み癖のある人は、桜を見ても、自分の苦しい気持ちを景色に投影してしまうので、どんな景色も色あせて感じてしまいます。ですから生きるのが辛く、人生が真っ暗に見えるのも、景色の色ではなく心の色なのだということがわかります。

 

 脳科学では、記憶は、脳の中に出来事の「哀しい固まり」として存在してはいません。脳の海馬(かいば)という記憶を司る部位の中で、記憶はバラバラの破片として落ちているのです。

 

 

 その破片には感情はありません。それは毎回、新たに扁桃体(へんとうたい)において荒ぶる感情によって再構築されるのです。そして、思い出を再構築するたびに「ツライ」「悲しい」「許せない」「これは失敗だ」とタグ付けが続きます。

 

 

 さらに過去の思い出は、すべて哀しく暗く、許せない体験として「再刻印」が更新され、それが感情を混乱させ、その不快の「今、ここ」の感情も過去のせいだと「再々刻印」され、『許せない』は、復讐心を生み、攻撃性へ転化され、さらに不快なタグ付けが続きます。それが、心に深く刻まれ、不快と不安をともなった長期記憶にすり替えられてゆきます。


 

 そうすると何度も開いた本のページにクセがつき、ことある毎に何度も意味なく同じページが勝手に開いてしまう。そのたびにまた辛く、悲しく、許せないという思いを「再々さい刻印」されてしまいます。

 それを古典心理学ではトラウマ(心的外傷体験)と呼ぶのです。


 

 ですから古典心理学のように、それを「傷」と名づけると、さらに傷口としてタグ付けが起こります。アドラーも、エリスも、パールスも、日本の森田療法の森田博士も「心の傷」として、囚われ、そう思い込むことで、さらに悩みをマイナスに深刻化してしまうと、彼らはすでに警告していました。

 

 ですから最新の心理学は、脳科学の発展にともない変わりつつあります。

 

 出来事を悲劇にするか、喜劇にするかは未来が決定するのです。あの事があって、すべてが最悪になったと思うと、最悪の傷として、さらに深刻なタグ付けがなされ、心も身体にもマイナスのエネルギーが充満し、プラスのエネルギーが出なくなってしまいます。そんなネガティヴな色メガネで世界を見るから、また、最悪な出来事を更新してしまう。

 

 

 それが、また「人なんて」「自分なんて...」とマイナスなタグ付けが心に深く刻み込まれてゆく。

 

 また「それはツラいですね」「ヒドイですね」「あなたは悪くない」と言うようなタイプの人に相談すると、それは催眠でいえば「強烈なマイナス暗示」として、権威者によりさらに新たなタグ付けとして記憶に蓄えられます。ですから、カール・ロジャース博士は、カウンセラーなどの権威者が解釈を加えるとクライエント(来談者)に多大な影響を与えてしまうので、常にカウンセラーには「中立的」な姿勢を強く求めました。

 

 僕の経験で言うなら、ツライと思った過去にも楽しい思い出や、美しい瞬間があったのに、悪か善か、正しいか、間違いかの二元論で単純化することで、この世界の美しさや深さに気づかない時代が、僕にもありました。今はカウンセラーとして人と関わりながら、悲しみや不幸の中にこそ、学びや、ステキな気づきが、いっぱい落ちていたのだと感じています。そして「ツラい思い出も、自分を高める気づきがあったよ」と、人に語る仕事をし、僕自身の哀しい過去の出来事のタグ付けが外れ、過去を再構築するたびにマイナスがプラスに変わって来たように思えます。バラバラな過去の火薬を再構築して、綺麗な花火として打ち上げるのです。

 

 

 そのたびに記憶はプラスに更新され、自分だけではなく、人も、自分も感動し、さらにプラスのタグ付け更新は続きます。

 

 今はドイツのアウシュヴィッツ強制収容所で捕虜になった精神科医フランクルのように、すべての「人生にYESと言える」ようになりました。

 

 そして、今は「世界は自分の思いや行動が色をつけていたのだ」と感じています!

 

 傷ついた、傷つけられたと言う人ほど、自分が人を傷つけたことは忘れがちです。なぜなら、誰かを攻撃し、知らない第三者に片一方の正義だけを語っている不正義は意識していないからです。その自分の正義の怒りは、やはり自分の人生の過去の過ちをも裁いてしまいます。どうしてあの時...と。

 

 なぜなら「人は完璧であるべきだ!」は、自分が失敗してしまった過去をも裁くのです。その失敗を、未来の人生に生かそうとせずに、過去の他人の過ち、自分の過去の1ページをも永遠に責め続けるのです。

 

 誰かへの呪いの言葉は、自分の心を疲れさせ、身体を不調にしてしまうことは精神免疫学で実証されています。

 

 私たちは「桜の木」に見習う必要があります。それは美しい花を惜しまない散りぎわの見事さです!

 いっせいに花を散らし落として行きます。いつまでも美しく飾るのでもなく、泣きわめくのでもなく、静かにすべてをかなぐり捨てて、未来に備えます!


 

 未来のために「今」の時を精一杯咲き、それにも執着せずに「過去」へと潔く花びらをかなぐり捨てて行くのです。来るべき「未来」に向かうために!

 桜の花が、風に吹き落されるのを見ると、雨や風に恨めしさを人は感じてしまいます。でも桜みずからが「かなぐり捨てるのだ!」と能動的にとらえ直すと「ものの哀れさ...」も、何だか「カッコ良く」感じます。

 

 つまらん過去は、かなぐり捨てましょう!

 「悲しみ」から「潔さ」へ...

 

 やっぱり日本の武士道にも通じます。


 

 

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