障壁(ストレス)のない世界で人は育つのか。

      2019/04/21

 先日、お子さまがイジメにあったと相談がありました。

 弁護士も立て、夫も許せないと憤っていると言っています。母である相談者も「子どもが可哀そうで…イジメた子どもが許せないと思います」と…学校も、イジメた子どもたちも、それを認めていると言う。

 


 どうやって制裁を加えるか…と言う話になりました。弁護士の先生も「学校も認め、子どもたちも証言し、ビデオという証拠もそろっているので勝つのだ💢」と言うことでしたとお母さん。

 

 

 僕は、愛する我が子がイジメられるのは、親として身を裂かれる思いなのだという感情には共感はできるのですが、同時にイジメてしまった側の子どもたちの不安も敏感に感じてしまうのです。

 おふざけからイジメの世界へ…

 そんな子どもの世界(おふざけ)から大人の世界(制裁)へ…冗談が冗談にならないことを学ぶのも教育のプロセスだと思うのですが、それが、過剰な制裁になってしまうことには僕は相談を聴きながら複雑な面持ちになってしまうのです。

 もちろん、イジメは良いことですか?悪いことですか?と問われると、僕も良いことではないと言うのですが……子どもの時には「じゃれ合いが、ケンカに。親しみが、相手にとってはイジメに。それで相手は傷つくのだ💢」と、知って学ぶことは、人が成長する大切なプロセスです。もちろん、すべてのイジメが、そうだと言うつもりもありません。大人の関与が不可欠な場合もあるからです。

 ただ、 じゃれ合いが、シツコくなり、それが、受ける者と、ふざける者との間にギャップが生じることもあります。「冗談も、度を越すと冗談にならない❗」と大人から叱られて、幼い心は学び、反省もし、後悔も生まれ、健全な大人に成長していくのです。  

 

 

 問題はどこまでが、冷静な教育上の罰と、我が子への可愛さからくる過剰な罰なのかの見極めが難しいと言いたいのです。

 今は弱者の立場が認められる時代です。

 学校のイジメ、組織のパワハラ、ブラック企業、過労死、どれをとっても許されることではないのです。ただ批判されることを承知で言わせて頂くなら、学校でイジメがあっても、決して死んではいけないし、過労の限界を超えても、会社を辞める自由もあり、死の選択というのはやはり僕は残念でならないのです。

 僕の娘がイジメにあって「いつも皆に死ねと言われる」「誰も一緒にお昼ご飯の時に仲間に入れてくれない」と悩んだすえに僕に相談してきたことがありました。

 

 

 僕は娘に言いました「お前が死ねと言われる側でよかった」「お前が誰かを仲間はずれにしている側でなく、される側でヨカッた」と一番先に感謝を伝えました。もし、それが逆の立場なら、パパはおまえと冷静に話す気にもなれないくらいにショックだったし、今この瞬間に「家を出て行け!」と感情的になっていたかもしれないから、と…だから、お前が言われる側、される側でヨカッた。   

 もし逆の立場だったら「僕たち家族の教育はなんだったんだ?」「パパはお前に何を教えて来たのだろう?」「どんな姿を見せてきたのだろう???」と、パパは自分に自信をなくして泣いていたかもしれないから。

 そして、「“皆”に死ねと言われると言ったけど、“クラス全員”がってこと?」「確認してみたの?」「“誰も”一緒に食べてくれないと言ったけど、“誰も”なの?」と僕は彼女にたずねた。

 「そう…」と娘は言った。「じゃ、そんな学校は辞めよう。いやパパからお願いする、辞めて欲しい!」と僕は娘に言った。そんなアホな学校は辞めよう。娘は意外な反応に「え?」って感じの顔をしました。

 もう、お前が辞めると決めたなら、お前にやってもらいたいことがある。「何を?」と不思議な顔の娘。

 どうせ辞めるなら「一緒に私とご飯を食べてもらえない?」とクラスのメンバーの一人、一人に、お願いしてみたらどうだろうか。それで、全員が「あなたとはイヤだ」と“皆に“断わられれば、そんなクソみたいな(言葉がひどい、でもリアルな描写です)クラスは、辞めても未練はないだろう。後で後悔もしないし…でも、もしかして、辞めた後に「もしかしたら…誰かが」と、思うと君が後悔するかもしれないから。

 でも、それは勇気がいることだし、パパは代わってやれないから、たいへんな事だし、難しいことだと思うから無理に『やれ』とは言えないけど…。だって、パパがお前の立場なら出来ないかもしれないから。一度考えてみて…と、僕は娘に告げて終わった。(ムリだろうなぁと思いながら)  

 

 

 結果は…。彼女は数日後、自分でクラスのメンバーに声をかけて行ったらしい(妻からの報告)、すぐに「一緒に食べよう!」と言ってくれる友が現れました(へー!と僕)

 そこから彼女はクラスの仲間も増え、その年に中学校の修学旅行がありました。彼女はそのクラスと離れる時に泣いたのです。「いい友だちに出逢えたと…」✨✨  

 いつか、子ども達も大人になり、職場に入った時には、理想的な職場ではないし、優しいだけの先輩たちだけでもないでしょう。その時に彼らが、どのように、その環境の中 で、泳ぎきって生きて行くのか。このサバイバルに立ち向かわせるのも教育だと思うのです。トラブルのたびに親が弁護士をたて、正義か、不正義かの戦いを子どもに見せれば、子どもは正義だけを主張するやりにくい大人になってしまいます。

 「清濁一緒に併せ呑む」綺麗な水も、泥水も飲んでも死なない強い精神の大人になることを、僕は子どもに望みます。

 


 「水清ければ魚棲まず」キレイな水、濁りのない世界は、不完全な矛盾ある自分自身をやがては否定し、アップアップと呼吸ができないくらい、生きづらい場所になってしまいます。なぜなら、人は誰もが完全ではなく、多くの人びとは矛盾のある不完全な存在だからです。

 


 「泥の中に咲く蓮の花」大切なことは、泥の環境でも、その最悪な環境に影響を受けず、自分らしく、美しい花を咲かせる生きかたができるかは自分次第です。
 「自分がこうなったのは環境(親、学校、職場)のせいです」は、自分自身の努力を放棄した人たちが使う言葉だから。

 


 そこに「そうなのよ。あなたは決して悪くないわ」と親が介入し過ぎると、より自己愛の肥大した大人を作りあげてしまいます。やはり周囲と上手につきあう社交術は、許すことも、誰かに許されることも反省をうながす大切な要素だからです。

 夏目漱石も「智に働けば角が立つ。情にサオさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」と言っています。

 僕の解釈だと、この社会は「私、間違ってませんから!」と、自分の正義だけを振りかざすと、他人と衝突します。逆に人の気持ちを思いすぎて、情けだけで相手にあわせて動いていると、自分の考えを伝えることができず、相手に対して折れてばかりになり、人の意見に流され、自分がない気分になります。それがイヤだからと、突然に自分の意地を主張し「私、間違っていませんから!」と周囲のムードに対立すると、周囲からの協力を得られずに孤立してしまいかねません。

 だから、人の世は、住みにくいと漱石は言ったのです。

 

 

 大切なのはバランスです。

 それを教えるのは親の「正しい!間違い!」善悪の二元論ではなく、許し、許される、回復力の高い、子ども達のバランス能力から学ぶことも必要です。

 幼い子どもたちを観察して下さい。ケンカしても、次の瞬間笑い合って遊んでいます。

 そこに「許してはダメ」「これはヒドイことなの」「怒りなさい」と、親が幼い頃の自分の思いを投影し、親の善悪のジャッジに、子どもの心はさらされてゆきます。その結果、子供たちは「こんな弱い自分は生きている価値はない」と思うか「相手を攻撃してやる〜💢」と自分の正義で、相手を攻撃し、周囲からすると、煙たい存在へと変わってしまいかねません。

 


 子どもが職場に入って、社会生活にいたるまで、親が介入するには限界があります。だから「お前なら乗り越えられるよ。大丈夫。信じているよ」と信じることです。彼らが自分で学ぶ、それが大切な彼らの生きた教育なのです。

 だから、親は「木」に「立」って「見」ると書くのですね。
 あまり木から親が降り過ぎると「どうかなぁ〜」と思うのです。

 


 「衛藤先生の子どもではないから、そんなことが言えるのです💢」とお叱りの声も聞こえて来そうです。

 「はい、そうですよね。すみません?💦」

 (小声で)「あの… 僕このお母さんに…イジメられました…傷つきました。弁護士の先生😭…訴えたいですが…僕の声が聞こえますか…」(小声で)

 

 

 

 

 

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