貧しさとは何か?

   

 ある学校で校長先生と話していて、ある一本の電話が学校に入った。我が子に家から傘を持たせたのに学校から濡れて帰って来た。傘を忘れてきたクラスメートと二人で相合い傘で帰って来て半分濡れたのです。傘を忘れた子どもに傘を持ってくるように注意をして下さい。

 僕はその怒っている親の子どもは優しい子だと思った…でも、その友だち思いの子を、親は叱ったのかもしれない。

「衣食足りて礼節を知る」と僕は教わった。貧困で食べることも衣服にもこと欠くと、人は他人のことなど考えられない。人は生活が安定してはじめて人間的な礼節を知ると…

 そうなのだろうか、昔、今ほど裕福ではなかった頃のほうが、日本人は優しかった気がする。

《あめふり》

 あめあめ ふれふれ かあさんが
 じゃのめで おむかえ うれしいな
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 かけましょ かばんを かあさんの
 あとから ゆこゆこ かねがなる
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 あらあら あのこは ずぶぬれだ   
 やなぎの ねかたで ないている
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 かあさん ぼくのを かしましょか
 きみきみ このかさ さしたまえ
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 ぼくなら いいんだ かあさんの
 おおきな じゃのめに はいってく
  ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 作詞:北原白秋
 作曲:中山晋平

 今の時代は傘を買えない家庭なんてない。傘がない子は、きっとダラしない子どもに違いない。そんなダラしない子どもの為に、このコロナウイルスの時代になんて事なの…
と、お母さんには「傘がない」=「だらしない子」そんな等式になってしまう時代なのです。

 日本が裕福でなかった頃「お醤油を切らしたから借りてくる」「夕飯作り過ぎたから食べて」「あの子にお前の傘を貸したげな」という言葉が、町かどに響いていた時代だったのかもしれません。

 向こう三軒両隣という言葉は「親しいご近所づきあい」という意味で使っていました。

 今やネットでは「貯蓄」やら「成功」やら、まるで自分や自分の家族しか信じられない。だから、自分は自分で守ろう!それが、トイレットペーパーやマスクの不足につながっているような気がするのです。

 本当の成功者は、あの人はどんな動乱の時代になっても、誰からも見捨てられない人。地位名誉がなくても「ほっとけない人」それが真の成功者だと僕は思うのです。

 暴言かもしれないけど、僕は、少し日本は貧乏になったほうが良いのかもと思ってしまいます。

 僕が子どもの頃に観ていたテレビの学園ものは、「あいつは貧乏だから修学旅行に行けないんだよ」「そうなのか !?オイ、みんなで何とかしようぜ!」「そうだ!」「俺もっとバイトするよ」「俺も!」「僕も!」「私も!」前日になり「みんな俺のぶんも修学旅行楽しんでくれよなぁ」その瞬間にみんなが「お前も行くんだよ!」「ごめん、俺行けないんだ。家が貧乏だから」「お前の修学旅行の費用はここにあるよ!」「お前たち(´༎ຶོρ༎ຶོ`)」

 そして、お約束のように「砂浜を夕陽に向かって走ろう!」だった。

 たんなる過去への郷愁と言われるかもしれない。でも、想像してしまう。

 「アイツ、リストラされたんだって」「俺が何とかするよ」「いや俺が!」「ヤツは俺ん家で飯食えばいいから」そんな声が出る社会。

 「あの子シングルマザーで子どもを抱えて大変なんだって」「子ども、ともども一緒に家においで!」「みんなで何とかするから安心して!」そんな声があがる社会。

 コンビニもスーパーも皆の冷蔵庫だと思う。その時に皆で「自分たちだけ!」の不安から皆で奪い合えば、足りている物も足らなくなる。

 一つでよいところを、不安感からもう一つトイレットロールに手を伸ばす時。

 想像してごらん…

 テレワークの仕事も出来ない。コロナの恐怖にさらされていても、家賃や生活のために休むことも許されない。人手不足から残業が連夜に続き、疲れた身体でコンビニに入ると陳列棚から食品がない瞬間の人の心の寂しさを…

 それを想像出来ることが、AIでは贖えない人間性というものではないのかい。
 今こそ人々の心の進化が問われています。

 闇に光あれ!

 

  

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