何かをスタートする時にダメだと思ってしまう理由
何か新しいことを始める時に、人の言葉が気になって自信をなくすることがありませんか?

「そんなのくだらないわよ」
「今から初めて間に合う?」 「時代にあってないじゃない」
「そんなの誰もが、やっているよ」 「採算合うと思っているの」
「絶対に失敗するわよ」
「価値がないじゃない。そんなの」でも、大切なことは、人は誰かの言葉で落ち込むのではありません。
あなたの中にある。その否定的な、その言葉に反応してあなたの無意識が受け入れて「そうだよね」「やっぱり無理かなぁ」「くだないよね」と思ってしまうのです。
そうなると、すべてが完璧でないから辞めておこう。そして、完璧な失敗しない情報、完璧なメンターとの出会い、完璧な資格を求めて、セミナーショッピングを繰り返すことになるのです。
完璧は、仕事においても、親としても、子どもに対しても、完璧を求めていくのです。
子どもを怒り過ぎる親も、上司に怒っている人も、親が毒親だと怒り続けている人も、周囲が完璧でないことが許せなく感じてしまいます。自分の心に不安があると、周囲を「完璧なものとして期待してしまう」とアメリカの臨床心理学のロロ・メイは言いました。「不安定な完全主義者になる」と…
カーネギーの言葉にDon’t cry over spilt milk.こぼれたミルクを悔やんでも仕方がない。失敗を悔やむなという意味です。

人生をふりかえると幸福続きもないし、不幸続きもないのです。一生に一度もミルクをこぼさない人はいないのです。こぼさない人生でないと気がすまないのはロロ・メイのいう「不安な完全主義者」です。
だから、何かをする時に、完璧でならないなら辞めておこうとなります。自分には無理だとなります。そんな人に伝えたい言葉は「人生は祭りだ」ということです。祭りは、ある人から見ると、「あんな重いものを持ってくだらない」とか「裸で何をしているの?」「ああ、水かけられて」となります。それはやっていない人たちの視点です。
でも、祭りに参加している人にとっては、こんなに面白いものはないのです。

ある方が、こう嘆いていました。
「私は講座を主催しているのに、参加者が増えないんです」と。
「こんなに努力しているのに…」と。
その方は本当にたくさんの努力をしていました。
多くのYouTubeを観て、これはすごいと思う講座には積極的に参加し、
ホームページも誰かに作ってもらい、YouTubeも立ち上げてもらい、
いわゆる“セミナーショッピング”もたくさん経験されていたのです。
でも、その方はある時こう漏らしました。
「中には“まったく面白くない!”と思う講座もあって。そんな時は『お金を返してほしい!』って思ってしまうんです。そう思うたびに、私の講座も同じように思われてるんじゃないかって、不安になるんです…」「こんなのじゃ価値がない」「もっと資格をいっぱい手に入れなければ」と…
そう…その人は「努力している」でも、その努力は、「完璧な自分でないと意味がない」とロロ・メイが指摘しているように自分にも、周囲にも完璧を期待してしまっているのです。その人が楽しく講座が開催したければ、まずは、その方が「面白くない!」と切り捨てた講座の背後にも、その主催者の一生懸命の“努力”があったことを認めてあげる優しさが大切なのかもしれません。
僕は、「他人の努力を見限る人は、自分の努力にもニヒルに笑ってしまう」ものだと思っています。
これを心理学では“投影“と呼んでいます。
何よりも、その人自身が、
「自分の話は面白くないんじゃないか」
「内容に厚みがない」
「自分の授業には価値がない」
「肩書きがなさ過ぎる」
そんな自分に対して自信がなくなるのは、他人に向ける厳しさが、自分に向いてしまっているからです。
赤ちゃんがソファにつかまって立ち上がろうとするとき、何度も何度もチャレンジしますよね。それを歩くならモデルのように人前でランウエイできるように「歩きなさいよ!」という怒りを他人に向けることで、自分のヨチヨチ歩きも許せなくなってしまっているのです。
その人に目標は何かと尋ねると、
「衛藤先生のような、一流の講師になりたい」と答えてくれました。
でも、その“一流”になるためには、まずは「自分の伝え歩き(伝えたいこと)」の時期を、ニヒルに否定しないこと。
どんなに未熟でも、自分の言葉や小さなスタートを見限らないことです。
僕自身の講座が面白いか、どうかは別にして、僕も最初から「上手くしゃべれた」わけではないのです。最初の頃はビクビクでした。
卒業生のひすいこたろう君だって、最初にメンタルの講師として話してくれた時は緊張でいっぱいで語っていました。
でも、彼をはじめ多くの卒業生が、今はそれぞれのフィールドで羽ばたいています。

飛び立てる人には、ある共通点があります。
それは、水が半分入ったコップを見たときに、「半分しかない」と自分の能力を見限るの人と、「半分もある!すごいと思いません!」と、自分の気づいたワクワク感を誰かを伝えたいと思う人なんです。
そして、来てくれた参加者の方に
「楽しんで帰ってもらいたい!」とワクワクできることが、何よりも大切です。
自分を否定しながら、誰かに講座を伝えても、そこには“感動”が生まれにくいのです。
なぜなら、セミナーは「学歴」でも「肩書き」でもなく、ワクワクしたその人の“魅力”だからです。
努力は大切です。でも、努力の方向性を間違ってはいけません。
地球と月の距離は、約38万4,400キロメートル。
これは地球を約9.6周もする距離に相当します。
どれだけ地球の上をその距離以上の15周歩いたとしても、月にはたどり着けません。
つまり、「がんばれば届く」というのは正しいけれど、
「がんばり方」が間違っていれば、どれだけ努力しても目標には届かないのです。
何か小さなことをスタートさせる時に、周囲の言葉に落ち込んでしまうとチャンスを失います。
というよりも周囲の言葉は無視すればいいのです。
でも、自分の内側にある批判精神、ニヒリズムは無視できない。アメリカの精神科医のジョージ・ウエインバーグは「ノイローゼの特徴は自分で、厳しく自分を責めている。自分に対する最高の批評家だ」と言いました。
ある僕のクライエントうつ病を克服した時に書いてくれた気づきのメモです。
私は、時に劣った他人を「くだらない」「意味がない」「オレはコイツらとは違うんだ」と思うことにとよって、「自分はスゴいんだ」「オレは偉いんだ」と思い込もうとし焦っていました。
でも、カウンセリングで気づいたことは、他人の欠点をあざ笑うことで、自分の不安の世界を作りあげていたのです。
なぜなら、誰かの弱さは、自分にもあるもだったからです。
私の心が回復していったのは、弱さを持った他人に対する思いやりという行動だったのです。
そのことによって私は自分の弱さや、劣った部分があっても大丈夫と思えたのです。誰もが自分をあざ笑うわけでないと安心できたのです。
世界が安心できなかったのは「自分は弱さを持たない者」「強くなければ誰からも愛されない」と思っていたからです。だから、弱い誰かをあざ笑うことで、何とか自分はコイツらとは違うんだと、安心しようとしていたのです。
でも、そのあざ笑いは自分に向けて不安がっていたのです。
自分の親も時に「ダメな人」や「弱い人」をあざ笑っていました。私もその両親のあざ笑いに「そうだ、そうだ」と一緒になって笑っていました。
でも、そのあざ笑いの空気の中で、私はさらに不安に怯えていました。人は完璧でなければ、こうして笑われる、誰からも相手にされないと、自分の不安の世界を強めていたのだと気づきました。これからは他人を弱さや足らなさを受け入れていこうと思います。
これからは優しい眼差しで人と関わって笑っていたいです。

この彼の気づきメモを見た時に、僕はカレン・ホーナイの「自分を愛せる程度にしか、他人を愛せないという」の言葉を思い出していました。
他人への厳しい目は、自分への厳しさに向かってしまうのです。
何かを始める時には、すごいことを求めるよりも、小さなことを感動できる自分を育ててください。
最後にアメリカでニューヨークからマイアミまで歩いた、お婆さんがいました。その人が新聞記者の質問に「最初の一歩を踏み出すに勇気をいらなかったわ」と笑いました。そうです。二歩目は一歩踏み出してこそ起こるのです。
もう一度言います。何かを始めたら自分のペースで歩けば良いのです。この世は「The best.」ないのです。あるのは「My best.」で進むのが長続きします。
僕の教室は3人からスタートしました。今は5万人の卒業生がいます。
僕は3人の受講生でも30年前はワクワクしていました。それが今につながっています。
自分の未完成さを責めるのではなく、その未完成を愛してあげること。
それが、「魅力ある人」への第一歩になると、僕は信じています。
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心理カウンセラー衛藤信之
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