死は、新たなる旅立ち…

      2019/04/21

 東京校の修了式が終わりました。

 

 

 260名の修了者が新たに基礎心理カウンセラーとしてライセンスを胸に旅立ちました。

 

 

 修了式の2ndステージのパフォーマンスは「生と死」について思いを巡らせる講師達からのプレゼントでした。生きている意味が感じなくて、自分自身なんかに価値がないと、心がつぶれそうになる時にこそ思い出して欲しい、誰もが人生の最初に言われた「Welcome」の言葉を!

 

 

 このショーに使われた中島みゆきさんの楽曲は、プロフェショナルコースのワークにも使われています。「すがりたい誰かを、失うたびに、誰かを守りたい私になる」

 人は別れを通して強くなる人と、別れで崩れ落ちてしまう人がいます。僕は前者でありたいと思っています。

 蝶がサナギを脱ぎすてる時、サナギの中で一度、すべての要素は崩壊し、再構築されます。サナギの最終段階では、混沌のカオスを経験し、美しいチョウに生まれ変わるそうです。

 

 

 Born again(再誕生)

 なんの因果か、その修了式の夜に、女性講師のお母さんが亡くなられました。

 最近は少し老いが進んだと言っておられたら、そのお母さんにガンが発見され、あれよあれよと言う間に弱っていかれました。そして、修了式の夜に旅立たれたのです。

 大人になると帰りたい場所が、一つずつ消えて行きます。すがりたい誰かを失うたびに「誰かを守れる強さ」持ちたいと僕は思う。

 やさしい母の胎から生まれ、人は母と離れ、そして、日常のある瞬間に、その出発した場所を喪ってしまう。誰もが経験することであるかも知れないが、やはり淋しいものです。

 

 

 それをどう乗り越えるか?

 インディアンの死生観は、死を通して、人は母なる大地で一つになる。死は終わりではなく、永遠の存在(グレートスピリット)とつながるプロセスだと言うのです。母なる地球には、過去に生きた先祖の愛が重なり合い、大地を作っていると…

 

 
 この母なる地球は、素粒子の世界観から見ると、インディアンの言うように、空気や水、木も、石も、そして動物、植物も、すべては素粒子の集合体です。どんな存在も素粒子が形を変えているだけなのです。また、それらの存在は「形」を永遠に、とどめることは不可能なのです。

 


 水ですら干上がって雲になります。そして、やがて天から雨として落ちて来ます。

 その水の一滴を、鳥がついばみ、その水が鳥の一部になる。その鳥が大地で死ぬと、鳥の死骸からの栄養は大地に吸収され、その養分で花が咲きます。その花も、やがて分解されて、素粒子となって、水や空気に形を変えて行きます。この世界の順番に別の形へと変化してゆくのです。

 


 存在は変化しながら、形を変えて、やはり存在し続ける。

 地球からすると「死」はなく、死は形を変えるだけで、地球の中では、何も失うものはないのです。
 
 僕たち人間は、地球からのあらゆる素粒子を交換し合って「今、この瞬間の自分」は生きています。水を口から取り込み、それは、やがて汗や涙となって外に出て行く…食料を取り入れ、肥やしとなって身体の外に出て行く… 酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐き出して、それを植物が、取り込んで、新たな酸素に変えてゆく…

 あなたが望む、望まないに関わらず、私たちは地球とエネルギーを交換しながら生きています。取り込み、手放しながら…

 いくら科学技術が発展したとしても、水(H2O)は、水素と酸素から出来ていると化学式では理解できても、無から水素の元素(H)や、酸素の元素(O)ですら、人間は作り出すことは出来ないのです。僕たちは、この自然からエネルギーを取り入れて、排出しながら「生きている」地球の一部なのです。

 


 宇宙の中で、ぽつーんと一人、何も取り入れることなく、単体として生きることは不可能なのです。

 

 ですから命は孤立した存在ではありません。そして、生と死は、対極にあるのではなく、表裏一体なのです。

 宇宙から見ると「死」は「生」を支えているし、「生」は「死」を必要としています。野菜や肉、どれを取っても、動物や植物の「死」を通して、僕たちの「生(いのち)」は支えられています。僕たちの身体も、細胞の生死が入れ替わり、身体は日々、新しく生きるのです。新陳代謝も、たくさんの細胞の「死」を通して、新しい身体が今あるのです。星ですら、強大な星の死「超新星爆発」によって、新しい若い星々が宇宙に広がって行くのです。

 多くの宗教が、語ってきた「この世界は修行場なのだ」
 この世界で生きることは「母なる地球」や「母親の体内」から分離して「孤独」で生きることだと…

 「生きる」=「牢獄」だと…

 人は自由で広がりのある「心」を「身体」という「牢獄」に閉じ込めて生きています。なぜなら、心は何処にでも行けるのに、身体の移動は大変です。心は多くの人を思ってあげられるのに、身体は目の前の人にしか優しくできません。

 人々の多くは集団の中で、身体で仕切られた「個として生きる」という、孤独に苦しんでいます。

 そうであるなら、肉体から解放される「死」は、牢獄からの釈放と言うことになります。だからと言って、自分から死への逃避(自殺)は、牢獄(修行)からの脱走になるわけですから、世界中の宗教は、宗派は違っても「自殺」は厳しく禁止しています。修行からの逃避は、さらに孤独で生きにくい、新たな人生が、最初から始まるのだと言われています。

 女性講師のお母さまの旅立ちも、自由で解放された、孤独のない世界への出発だったと、僕は信じています。なぜなら、人生の寿命まで立派に生き抜かれたのですから、孤独からの釈放です。

 


 インディアンが言う「死生観」も、すべては素粒子に還元され、大いなる存在の中に一つになり、それは「私」「あなた」という、大切な人であっても「別者」なのだと感じる「孤独からの解放」だと言うのです。そして、強いて言えば、死は、地球に生きる全生命と、一つに溶け合う瞬間だと彼らは信じています。

 僕もこの考えに共感しています。

 現実の世界でも、誰かと誰かの誤解が解けて、心が触れ合えた瞬間の安心感は、その疑似体験と言えるのでしょう。それを人は愛と呼びます。

 死は愛の世界への旅立ちなのだと信じたいのです。

 

 

 

 

 

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