完璧を求めての旅は、不完全な世界に迷いこむ!

      2019/04/21

 桃源郷、この世界でない別の世界。

 

 

 幸せな人達が住んでいる、戦いもない、満ち足りた世界。

 多くの人々が、心に不安がなく、充実した世界を求めています。

 カウンセリングに来られる人たちも、心に雑味(ざつみ)のない世界を求めているのかもしれません。

 

 

  ある女性が言いました。自分は母子家庭の一人っ子として育てられました。私が小学生の時、母は知らない男性を連れて来たりしました。その事で母を恨んでいるわけではないけれど、現在、年老いた母が、孫でもある私の子に、生活が苦しいはずなのに、お金をあげたりしているのを見ると、何とも言えない複雑な気持ちになります。

 心の奥底で何かを引きずっているのではないかという相談でした。心理学の本を見ると自分で理解できる意識は10%で、ほとんどは目に見えない無意識だと書いてあるから。何かトラウマがあるのでは?

 僕は伝えました。もちろん、あなたの言うように生活が楽じゃないのに「無理をしなくてもいいのに」と心配する気持ちもあるでしょう。もしかして、幼い時の事を思い出して、私にはしてくれなかったのに、今さら優しいお婆ちゃん、お母さんヅラをする事に不満を感じるのかもしれません。または、苦労をしていない子ども達への嫉妬もあるのかもしれません。または、子どもは自分が教育する(金銭感覚、食べ物など)と思っているから、外野からの差し出がましい関わりに不満があるのかもしれません。

 そうです、人の心は単純ではありません。色んな要素が、からみあって感情は作られています。

 相手に対してもそうです。100パーセント悪い母、100パーセント良い母もいないのです。一つ言える事は、お母さん自身も悪い要素、いや弱い要素と言ったほうが良いかもしれませんが、そういう要素を持っているということです。

 人は完璧にもなり得ないし、完璧な不完全にもなり得ないのです。なぜなら、親は完璧ではないにしろ、食事は一度でも食べさせてくれた記憶はあるし、雨風をしのげる屋根もあったからです。

 


 僕は彼女に質問しました。

 


 「その知らない男性を連れて来た時、あなたは何歳でした?」
 「小学校の1年生か2年生」
 「その時のお母さんの年齢は、逆算できますよね?」
 「多分、30代前半」
 「今のあなたの年齢より若いですか、年上ですか?」
 「若いです」


 「じゃ、お母さんという役割を切り離して、一人の30代前半の女性として、考えてほしいのですが、お父さん(彼氏)と離婚して(別れ)、女性ひとりで、一人の女の子(他人)の手を引いての生活、ふと淋しくなる夜、将来に不安になる時、誰かに愛され、安心して頼りたいという気持ちはあってはならないと思いますか?
      あなたより若い女性として考えて欲しいのです」


 「母を女性と考えた事はなかったです。そう考えると母は良くやっていたと思います。私の今に置き換えたとしても…」
 
 人は自分の親には、ついつい理想のイメージを持ち、点数は辛口になります。
 
 僕もアメリカでエンプティ・チェアー(空っぽのイス)をするまでは…。
 
  少年から青年期の僕は、母と離婚し、新しい女性を連れて来る父親に怒りを感じていました。だから、目の前のイスにイメージの父親を座らせて、いかに父親として失格か、身勝手であるかをぶつけました(口撃)。
  次に僕が父親のイスのほうに座り、父親の立場になって弁護士になった気分で、先ほど君が言ったことについて父親を弁護しろと、師である指導カウンセラーに言われました。
 
 そこには若くして結婚し、母と別れて、子どもを引取り、経営者として二重に苦しむ青年の頃の父がいました。

 妻に去られたことに自信を失い、子どもを渡さないと意地を張って、引き取った幼い兄妹。仕事と子どもの生活に戸惑う荒けずりの若い青年。誰かに愛されたい、助けてもらいたいと思った時に出会った、優しい女性たち…


 そこにあったのは、理想郷の父ではなく、未熟で不安を抱えた青年の姿でした。
 
 そんなことを思い出しながら、僕は彼女のカウンセリングを続けました。
 
 「あなたが小学校1、2年の頃のお母さんは、母としてではなく、一人の若い女性としたなら受容できる?」「ええ、若い母は不安だったと思います」

 

 

  「今のあなたは、結婚していて、子どもがいて不安になることはないですか?
 もっと違う人生があったのでは?とか、 もっと完璧な出逢い、違う生活とか…
 ふと不安になったことは?」


 「あります」


 「自分はあっても、お母さんには許せないわけですか?
           今のあなたより若い女性に…」

 

 
 「母を弱い女性として、私は見たことはなかったのかも知れません(安堵の笑)」
 「僕も過去そうでしたから…年齢を重ねるのも良いことでしょ(笑)」
 
 カレン・ホーナイは言いました。「自分を愛せる程度にしか、他人は愛せない」と。
 
  自分自身を振り返っても、僕は完璧でも、完全無欠でもありません。ならば、父に完璧を求める裏側には「父だから」「母だから」「上司だから」 「先生だから」の理想化された「〜べき主義」「〜ねばならない主義」が隠れています。
 
 僕はつづけました。あなたがお母さんに、今優しく感じている気持ちも真実だし、また今後、お母さんにイライラする気持ちも真実です。それはトラウマ(心的外傷)というオドロオドロ👻しい化け物のせいにしないで欲しいのです。
 
 今までの古典心理はフロイトから派生し、心の底は「得体も知れない化け物が隠れているゴミ箱みたいなもの」そう教えられると、自分の中にあるモヤモヤを完全に退治しなければと、さらに不安になります。
 
 そこにカウンセラーと呼ばれる人が「それは親とのトラウマよ👻クリアリングしなければ」「いまだに先生💦モヤモヤが外れません」
 「それは困ったものね💦まだ、あなたの思いと、分析が足らないのね」となり、いつまでも勉強会やカウンセリングが得体もしれないものに引きずられ、継続されることになります。
 
 僕は、人はモヤモヤはあるし、クリアになっても、またモヤモヤは感じると思う。それは無意識の化け物ではなく、人間は思うようにならなければモヤモヤするし、何かに不安にもなります。それを無意識(暗闇の袋)に求めるのではなく、自分自身の中に、自分や誰かに完璧を求める完璧主義が隠れているのかも知れません。
 
 完璧な世界(桃源郷)を求めるほどに、ユートピア(理想郷)は、未だに完璧でない何かに囚われて、デス・トピア(不幸な世界)になってしまうものですから。
 
 人は完璧ではないです。弱いです…
 

 

 「だって、人間だもん」by 相田みつを

 

 

 

 

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